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2008年 02月 17日

柳沢保正『カメラは時の氏神-新橋カメラ屋の見た昭和写真史』

c0155474_17471512.jpgちょっと年配のカメラファンならウツキカメラの名前をご存知の方も多いのではなかろうか。店主の宇津木發生(うつき・はつお)さんは、大正7年生まれ。神田の織物問屋の跡取りになるはずが、カメラ好きが高じて国民新聞(のち東京新聞)に就職し、太平洋戦争前夜から戦時下を写真部員として過ごした。その後昭和21年に新橋にカメラ屋を開業し2005年に廃業するまで約60年間、新橋と銀座を拠点に、カメラの移り変わりを見つめてきた。

この『カメラは時の氏神-新橋カメラ屋の見た昭和写真史』(2008年2月 光人社)は、ウツキカメラ店に通いつめ、宇津木さんの話にほれこんだ朝日新聞記者の柳沢保正さんが聞き書きをまとめたもの。

第一部が「新聞写真部員の戦中奮闘記」。カメラにほれ込んでプラウベル・ローロップを買ってから、ほしいカメラが出てきては売り-買いを繰り返しそのまま仕事にせんと写真部員として国民新聞に入社。かけだし写真部員として奮闘する。宮内省で御真影を逆さまに複写しようとしたところを見つかってお目玉をくらったり、情報統制下に、苦労して撮影した写真が載らなかったり。はたまた、墜落したB29を撮りに行ったところ大きすぎて、斜めの位置から翼をやや寸詰まりに写したら、朝日新聞は同じものを主翼を正面から撮影し、翼が横にずーっと長くのびた絵柄としたため、大きさが際立って見える。あーあ、こんなふうに撮らなきゃと反省したり、戦中のエピソードが満載だ。あのころの新聞社がいかに経費におおらかだったか、また、エアブラシでの修正などあたりまえで、ソロモン海戦での大勝利を伝える写真が、伝送の状態が悪いので、各社が修正を加え、まるで違った写真になってしまったこと。玉音放送の日、人々が宮城前広場で玉砂利に伏して嘆く写真を、これまで能天気に、買軍部のいいなりの記事を書いていた新聞が、これが敗戦国民の姿だなんて、載せていいのか───といった議論が各社であったこと(とはいえ、毎日新聞は写真を大きく掲載し、しかれ、モンタージュで人数を増やしていたらしい)、各社が米軍進駐直前に不都合な書類や写真記録を処分したこと。毎日は隠したため、記録が残った。戦争中の写真で毎日新聞のものが圧倒的に多いのはそのためとか。裏話がめっぽうおもしろい。

第二部は「新橋カメラ屋繁盛記」。新橋に開業してから今日までの移り変わりを描く。進駐軍の横流しのカメラが飛ぶように売れたこと。24時間体制のDPが大いに繁盛したこと。ライカM3出現の衝撃。カメラの歴史など、とんと知らない私にもすこぶるおもしろかったので、戦後のカメラ事情に興味のある向きは、膝を打つことうけあいだ。

しかし、カメラがオートになり、「押せば写るもの」となって、カメラは家電製品と同じになってしまう。さらにデジカメが登場し、インターネットオークションなどが隆盛になる。それは古き良きカメラ屋の終焉でもあった。
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   むろんカメラ屋はなくなりはしない。カメラ好きもちゃんといるし、店先での語らいもネットでは得られないものである。
   しかし、現実に客が別ルートから安いものを買っている以上、カメラ屋もその現実と向かい合わざるをえない。そのうえでカメラ屋になにができるか。適応できないところは消えていくしかない。そうして、いくつもの店が扉を閉めた。
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新橋、銀座界隈は戦前からずっと日本のカメラ屋のメッカであったが、その数も今は十指に満たない。

最後の一文。

ここで六十年を過ごした發生にとって、カメラは終生変わることのない友、「時の氏神」であった。しかし、そのカメラの氏神は、最後に微笑んではくれなかったのである。
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写真は、銀座交詢ビル横。学生時代に銀座でバイトをしていたとき、能楽堂ビル近くのカメラ屋さんにお世話になったことを思い出した。ニコンが並んでたビルもいまはマツモトキヨシである。

by sustena | 2008-02-17 17:50 | 読んだ本のこと | Comments(0)


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