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2010年 04月 02日

『三低主義』『建築の危機を超えて』

c0155474_18562056.jpg最近、建築家の隈研吾の本を2冊読んだ。1冊はマーケッターの三浦展との対談集『三低主義』(2010年2月 NTT出版)、いま一冊が彼の20代~30代前半の若いころの批評をまとめた『建築の危機を超えて』(1995年 TOTO出版)である。

「三低主義」というのは三浦展の造語で、モテル男の条件がかつての「三高」(高学歴・高所得・高身長)から、今は低リスク、低依存、低姿勢の「三低」となっているわけだが、男だけでなく、都市や建築も、偉大で高圧的なものから、低層、低姿勢(かわいい)、低炭素(環境への負荷が少ない)であるべきだとして、昔から「負ける建築」なんてことを提唱していた隈と、これからの建築や住宅、社会のあるべき姿について論じ合ったもの。

といっても、二人ともやはり頭がよくて高ピーな発言が多いのであって、どこが三低だよってツッコミたくもなるんだけど、これまでの中心市街地活性化なんていっては、新しいハコモノを建てて風景の記憶を壊しちゃうような「記憶喪失型まちこわし」から、これからは死ぬための街、弱い人が幸せに暮らせる街に再編成する知恵とプロデュース力こそが建築家に求められている、建築とは場所のリノベーションなんだって話には思わずナットクしちゃうのだ。

そういう議論を思い浮かべながら、隈が1977-84年ごろに「SD」誌上に発表した論評をまとめた『建築の危機を超えて』を読むと、いやまぁ、なんと生意気な若造だったことだろうかとあきれかえりはするのだけれど、彼のそものもの志が、進歩主義を疑わない建築への違和感だったことがよくわかる。

10年ぐらい前に隈にインタビューしたとき、本棚にある本が、文系人間の読むような本が多いのにへーぇと思ったものだったが、ヴァレリーやシェイクスピアを引用しつつ、いま主流の建築や建築評論とは違う道をめざすのだという決意がはしばしにうかがえるのである。ま、ちょっとクサいけどね。

「三低主義」
第1章 三低の都市、建築って?
(進歩の終わりの時代;二〇世紀の都市の死と生;モール化する世界には耐えられない ほか)
第2章 移動と建築
(中古マンションをリノベして中古品だけで揃える;隈研吾の原風景;モダンはもっと陰影に富んでいる ほか)
第3章 借りる建築、借りる都市
(コーポラティブ賃貸住宅みたいなものがあるといい;古いものを活かす;東京の風土、バナキュラーとは? ほか)


「建築の危機を超えて」
I
犯人捜しからリミナリティへ/周縁の空間工作者たち/建築ジャーナリズムとピューリタニズム/グラスの底の近代/アテネのポセイドン/コンテクスチュアリズム/植物園の問題/食べる空間/文明/イギリス的転換/成熟のおかげ/衰亡の三形式
II
劇的なる公的表現者達/兵器産業としてのアーバンデザイン/救済としての村野藤吾/人生のメタボリズム/発注芸術論/女の時代/芸術家と批評家/出来・不出来/スクールの作り方/古典主義のみみっちさ/パラディオのマージャン/ドローイングの二戦略
III
知識人の挫折/作家・教師・知識人/観念のよろめき/小児性と自罰/結婚の反復/ドガ、あるいは建築家の言説/立役とつっころばし/ニヒリスト・女・建築/地方の孤独/大組織という弱者/いい加減の勧め/建築家気質

IV
恋愛論としての東京論/Hamlet or Macbeth?/ハムレットの胡桃/暴力/マクベス/軽薄/失敗作/懐疑主義/でっちあげられた過去/博物学とユートピア/夢遊病者としての建築家/白紙の誘惑/海・波浪・海底
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by sustena | 2010-04-02 01:04 | 読んだ本のこと | Comments(0)


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