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2011年 06月 30日

朝吹 真理子『きことわ』

c0155474_22363446.jpg第144回(2010年下半期)の芥川賞を受賞した朝吹真理子さんの『きことわ』(新潮社 2011年1月刊)を読む。

芥川賞受賞のニュースをテレビで見たときに、髪の間から耳がとがってみえたことが強く印象に残っていて、読んでみようという気が起きたのである。

翻訳家の朝吹登水子さんは大叔母で、お父様は詩人で仏文学者の朝吹亮二さんとのこと。しゃべりかたにしても、あんまり現代っ子じゃないみたいだったけど、この小説を読んで、舞台はいまなのに、まるで昭和や大正の話であってもおかしくないよねぇ・・・と思ったことだった。

この変わったタイトルが???なのだけれど、最初の2行で、すぐわかる。

永遠子(とわこ)は夢をみる。
貴子(きこ)は夢をみない。

この小説は、葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子の話である。貴子は別荘をもつ家の娘で、母親の心臓の悪い春子と叔父の和雄との3人で夏を過ごす。永遠子は別荘の管理人の娘だが、7歳下の貴子とは姉妹のような関係だ。

春子の死を境に貴子が別荘に来ることもなくなり、二人は会わなくなるが、25年後に、別荘が解体され人出に渡ることになり、所持品の整理のためにふたたび出会う。

物語は、二人の現在と回想が行きつ戻りつしながら、ゆるやかに流れ、永遠のときを刻むかのようにめぐっていく。二人の記憶がからみあい、微妙にずれて、たゆたう。


永遠子は、化石の絵本や海洋生物や、何百年も前の地層の話が好きだ。

・・目にもとまらぬ速さでいきものがうまれていた五億四千二百万年前の海の生きもの。カンブリア、オルドビス、シルル、デボン、古生代のいくつもの時の名を口にするだけで、いなくなってしまったたくさんのふるい生きもののすがたが目の前を過ぎて、ほんのわずかな間に何億もの時間が永遠子の身体を通りぬけていくようだった。古生代の夏はどんな夏だったのか。忘れられた古代の記憶をゆりもどそうとする。永遠子の身体はいまに皮膚が透けはじめ、手も足も身のすべてがほどけてとうめいなくらげのような、なにからの支えもないただ水に押し流されてゆくだけの生体になりそうだった。

こんなふうに、ひらたいまろやかな言葉が続く。

寝ころんだ二人の髪がからまって、どちらがお互いのものかわからなくなってしまう描写など、ぞくっときちゃう。

「こうしているうちに百年と経つ」

この小説では、「E2-E4」の曲が出てくる。チェスが得意な叔父が言う。「棋譜が音楽になってる。E4からはじまってステイルメイトで終わる」。この曲がどのような棋譜になっているのかを想像するのが楽しいのだそうだ。(朝吹さんは、小学校からチェスをやってるんだって)

一行一行がいとおしくなるような小説だったよ。
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by sustena | 2011-06-30 22:36 | 読んだ本のこと | Comments(6)
2011年 06月 30日

ラジオ体操

先日の人間ドックでここ数年一定だったBMIの値が上昇したので、これはイケナイ、ときのうから朝5時50分に起きて近くの公園を散歩してラジオ体操をして朝食という生活を送ることにした。
本日は2日目である。

いちおうカメラは持っていくんだけど、せっせと歩かないとラジオ体操に間に合わないので、一瞬立ちどまっては、蓮をぱちり、蜘蛛の巣があったからぱちり、なんて具合で、なんだかせわしない。

本日は発見がなかったなぁ・・とラジオ体操の前にストレッチをしていると、近くのひとがアッと叫ぶ。カワセミが飛んできて、池の真ん中の睡蓮のまわりの杭に止まったという。指さす方向を見るけれども、私の視力でははっきり見えない。指さす方向にカメラを向けて拡大してみると、おお、写っている!(換算200mmぐらい)。

以前散歩を日課にしようと歩きだしたときもカワセミが歓迎してくれたし、早起きはするものなのである。
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トリミングして拡大すると、なんだか細長い気が。背伸び?してるのかしら。
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早くも暑い・・・。
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by sustena | 2011-06-30 21:54 | 小さな自然 | Comments(6)
2011年 06月 29日

スイートバジル栽培中

あまりの暑さに、コンビニにお茶を買いに立ち寄ったら、「おーいお茶」に野菜の種が!

すでにTwitterやあちこちのブログでも紹介されているからご存知の向きも多いだろう。6月6日から展開中の「おーいお茶 玄米茶」のリニュアル記念の首かけキャンペーンで、リーフレタス、三つ葉、パセリ、サラダ菜、スイートバジル、ネギの6種類の「野菜栽培セット」をおまけにつけているのである。

圧縮した培養土と野菜の種が入っていて、培養土を水でふやふかしてペットボトルのフタに入れ、そこにタネを蒔け、とある。5円玉ぐらいの土だったけれど、意外や増えて、フタ2つ分になった。で、3日目の朝見たら、こんなふうにちょこんと芽が出てきたのである。

こんど間引きして、もうちょっと大きなものに移しかえなければ!

ワタシはいちおう広告屋なので、キャンペーンやノベルティの提案などもしてるんだけど、最近はいかにクチコミ効果をねらうか、というのが大きなポイントであります。ワタシみたいにノセられやすい人がいっぱいいるし、きっと大いにウケたはず。

でもちゃんと育つかしらん??
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by sustena | 2011-06-29 21:26 | つれづれ | Comments(6)
2011年 06月 28日

見え隠れ

メゾン・エルメスの壁に埋め込まれた小さなウィンドウは、2カ月に一度くらい?の間隔で展示内容が変わる。
30cm四方ぐらいなので、カップやサイフやベルト、時計などちょっとした小物が飾られるのだけど、ただ商品を置くだけじゃツマラナイと思うのか、やりすぎじゃないんだろーか、と思うような、ちょっとヘンテコリンな展示が多い。

今回は2センチぐらいの帯の合間から、商品が覗いてる。ある角度からしか見えない。青とオレンジのツートンカラーだったり、オレンジの格子だったり、青のストライプだったりいくつかのバリエーションがある。

まぁ、ちょっと変わっていればなんでもアリなのよねー、きっと。
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by sustena | 2011-06-28 22:26 | まち散歩 | Comments(2)
2011年 06月 27日

禁止・制止・お願い・お詫び

工事中関連の看板は大好きなんだけど、このところ通勤途中にほれぼれと眺めているのが、この「あぶないからはいってはいけません」の看板。いい表情と手だよねえ。つい目が合ってしまう。
この手の看板は折に触れて紹介しているけれど、今回もドドッとアップ。いやはや、看板ひとつとっても、与える印象はさまざまなんである。
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この犬たちは五洋建設のキャラですね。
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おねえさんに頼まれる方がソフトな印象なのか?
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これは台湾で採取したもの。ちょっと毛色が違うよね。
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by sustena | 2011-06-27 22:33 | 看板・サイン・ポスター | Comments(12)
2011年 06月 26日

トゥルー・グリット

3月に見たコーエン兄弟の「トゥルー・グリット」(原題: True Grit 2010年アメリカ映画)、アップし忘れてたので、何じゃ今ごろという感じだけど、ご報告。

ジョン・ウェインがオスカーを手にした「勇気ある追跡」(1969年)のリメイク。最近公開される西部劇映画は、かつてのような勧善懲悪のクッキリした、血わき肉踊り、アドレナリンどばどばの単純な活劇ものというわけにはいかなくって、どこか苦みが残るのがいまふうなのであります。

この「トゥルー・グリット」(=真の勇気、ほどの意味)も、父親を殺された14歳の少女が、二人の男と犯人を追う復讐劇だけれど、実にしみじみとした余韻を残す。

14歳の少女、マティ・ロス(ヘイリー・スタインフェルド)は牧場主の娘。父親が雇い人のトム・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)に殺され、遺体を引き取りにやってくる。
聞けばチェイニーは、お尋ね者のネッド(バリー・ペッパー)とともにインディアンの住む保護領に逃げ込んだというのだ。
復讐を果たすため、少女は大酒飲みの連邦保安官ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇い、無法地帯に足を踏み入れる。別の容疑でチェイニーを追っていたテキサスのレンジャーのラビーフ(マット・デイモン)も加わり、犯人追跡の旅へ。一行の行く手に多くの苦難が待ち受ける・・・・。

利発でまっすぐでへこたれず、大人顔負けの弁の立つマティを演じたヘイリー・スタインフェルドがいい。こんな少女に詰め寄られたら、たじたじになっちゃうよねぇ。
ジェフ・ブリッジスは、こういう落ちぶれ果てて、堕落してやる気のなさそうなんだけど、イザとなるとプロフェッシノナルって役どころがハマる。マット・デイモンは、二度目に出てくるまで、彼とはわからなかった。最初お馬鹿なマッチョ男かに見えたが、さにあらず、これまたいい役。

映画館には「WANTED」という看板のついた鏡があったなぁ。お尋ね者になった自画像をぱちり。
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by sustena | 2011-06-26 22:31 | Theatre/Cinema | Comments(2)
2011年 06月 26日

藤本壮介『建築が生まれるとき』

c0155474_22404244.jpg藤本壮介の『建築が生まれるとき』(王国社 2010年8月刊)を読む。

大きく2部に分かれていて、1部は藤本の建築プロジェクトや設計プランの解説やアイデアコンペの文章などもを年代順に並べたもの。第2部は彼が好きな建築や、実際に訪れた建築についての文章と「ディテール・ジャパン」誌の藤本へのインタビューである。

藤本壮介の発想の根っこにあるもの、どんなふうに言葉をつむぎ、その言葉が建築につながり新たなかたちを生み出して、言葉と建築が刺激し合いながら深まっていく様子が伺える。

冒頭の「プリミティヴ・フューチャー」の文章の中で、藤本はこんなふうに語る。

建築をつくるときには、常に現代における普遍的なものを求めたい。しかし、それは現代という時代や現代の建築を分析することからは生まれない。常に新しいものをつくりたいし、同時にそれがいつまでも新しいままでいてほしいと思うが、将来を先取りする新しさではなく、永遠に実現しない新しさを求めたい。それは未来の予想からは生まれてこない。彼にとって現代とは、「決して着地しない未来への跳躍が行われるための踏み切り板」である、と。

そんな藤本が捉える現代をひとことでいうと、「情報と環境の時代」である。なんだアタリマエの定義だと思う泣かれ。彼の意味する情報は「新しい単純さ」であり,環境とは「コントロールできない他者」である。
新しい単純さを備えていて、自分ではコントロールできない他者的な要因を許容する多様な場所をもつ建築とは───。それが「未来の森」のような場所である。(むろんメルヘンチックな森ではない)。

藤本は、「未来の建築のための5つの問い」として、(1)場所としての建築、(2)不自由さの建築、(3)形のない建築、(4)部分の建築 (5)あいだの建築、の5つを掲げる。

たとえば、居場所から発想する。部分からの秩序を考える。
大きな骨格から秩序をつくっていくという近代の大きな方法とは正反対の考え方だ。
町をつくるときに大通りから考え家々を配置していくのではなく、小さな路地や小さな広場のようなものから隣の路地や広場と穏やかに関係を持ちながら広がっていく町のつくられ方。

部分と部分の局所的な関係性から緩やかな秩序が生まれていく。それはちょうど、自然の中の複雑な秩序、たとえば森のつくられ方に似ている。そんな「偶然の多様性」を生み出していく建築を構想したい、と彼は言う。

住むための快適な領域を囲い取り、そのぼんやりとした領域のなかに、内部の部屋や外側のテラス、外部のような内部のような場所など、いろいろな質の場を取り込んで,内部外部の区別なく快適な住環境をつくりだす。部分と部分の関係性から生じる秩序については、I・ブリゴジン+I・スタンジェール「混沌からの秩序」から影響を受けたという。 

こうした「関係性と距離感の感覚というのは、いまの若いひとにも共通した感覚なのだろうか(うちの息子などは、藤本にぞっこんである)

それと藤本が若いときに影響を受けたのは、なんとガモフ全集なんだって。空間を、ヴォリームがあり、ゆがみ、身体と相互作用するものと規定する。建築以前に空間というものを意識しはじめたという藤本の空間の概念は、相対性理論のイメージから始まっているそうだ。

以前、ギャラリーワタリでやっていた藤本壮介のスタディ模型や新作をズラリ並べた個展の前にこの本を読んでいたならば、あのさまざまな形の意味が、とてもよくわかったことだったなぁ。
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by sustena | 2011-06-26 21:52 | 読んだ本のこと | Comments(4)
2011年 06月 26日

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

c0155474_16171751.jpg東大の加藤陽子先生の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 2009年7月刊)を読んだ。

日清戦争から太平洋戦争まで10年ごとに大きな戦争をやってきた近現代日本が、戦争を国民に説得する論理はいかなるものであったか。それぞれの戦争の根源的な特徴や、時々の戦争が、国際関係や地域秩序や国家や社会に対していかなる影響を及ぼしたか、それぞれの戦争の前と後でいかなる変化が起きたのかについて、栄光学園の歴史研究部の生徒たちに行った5日間の講義をもとにまとめたもの。最新の史料も折り込み、日本だけでなく、中国や列強の視点も加えて、バランスよくいきいきと描き出される。

私が高校のときは地理も世界史も日本史も倫理社会もすべてが必修だったけど、入試では世界史と地理を選択したから、日本史はどうも教科書でサッとなぞっただけで、とくに近現代史は不案内である。

なので日露戦争など、ロシア側が「陸海軍が見事な共同作戦を行った点に新しい戦争のかたちがあった」などと分析しているのを知ると、おお~!と思ってしまう。

まず序章からぐいっと読者をひきつける。

9.11テロをアメリカは「戦争」というより「国内社会の法を犯した邪悪な犯罪者を取り締まる」感覚でとらえた。これと同じような体外認識をかつての日本も持っていたが、いつのことだと思うか? また、リンカーンが「人民の、人民による、人民のための」というゲチスバークの演説で理想を掲げたのはなぜなのか、を生徒たちに問いかける。
そして、膨大な戦死傷者を出した戦争の後には、国家が新たな社会契約を必要とするということを、ルソーの「戦争は敵対する国家の憲法や社会を成立させている基本原理に対する攻撃というかたちをとる」という目からウロコの洞察を紹介しながら述べ、太平洋戦争のあとに書き換えられた日本の基本原理について考えさせるのである。

加藤先生は力説する。歴史は決して暗記科目ではない。分析をする主体である自分という人間が、真に知りたい「問い」の切実さによって導かれるものだ。たとえばE.H.カーが『危機の20年 1919-1839』で問うたのは、第一次大戦の反省のもとにヴェルサイユ体制=国際連盟のしくみが掲げられながら、なぜ20年しか平和が続かなかったのか、というものだった。このような、解くに値する問いの集大成こそが教科書であるべきだ。

そして生徒たちと一緒に考えていくのである。普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか、と。

圧巻は、第4章である。
及び腰のアメリカやソ連を日本と戦わせる土俵に引き込むためには何が必要かを論じた胡適の「日本切腹、中国介錯論」。日本と中国が正面戦争をすると、当初日本にやられ、中国沿岸の港湾や諸都市、長江の下流域は占領される。しかし、それを耐え抜き、日本が満州だけでなく西方や南方に移動して初めて、ソ連がつけ込む機会が来たと判断し、英米などが切迫した脅威を感じて、自らの権利を守ろうと介入してくる・・というすさまじいまでの覚悟を紹介したくだり。

栄光学園の生徒たちの賢いこともびっくりだったよー。

序章 日本近現代史を考える
1章 日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの
2章 日露戦争―朝鮮か満州か、それが問題
3章 第一次世界大戦―日本が抱いた主観的な挫折
4章 満州事変と日中戦争―日本切腹、中国介錯論
5章 太平洋戦争―戦死者の死に場所を教えられなかった国

(追伸)この7月に半藤一利との対談『昭和史裁判』が文藝春秋から出版される。松岡洋右、広田弘毅、近衛文麿、木戸幸一、昭和天皇を俎上にあげて、半藤は検察官として罪状に迫り、加藤は弁護士訳となって、情状酌量の根拠を開陳するものという。早く読んでみたいなぁ。

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by sustena | 2011-06-26 16:17 | 読んだ本のこと | Comments(4)
2011年 06月 26日

落花

花びらが落ちていると、つい撮りたくなっちゃう。
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by sustena | 2011-06-26 15:08 | 小さな自然 | Comments(0)
2011年 06月 25日

新国立劇場『雨』

c0155474_22483787.jpg新国立劇場で、井上ひさし/作 栗山民也/演出の「雨」を見た。

この作品は1976年に渋谷の西武劇場で木村光一の演出で初演。たしか私は、1979年に紀伊国屋ホールで主人公の徳が 名古屋章、おたかが有馬稲子のコンビで見ている。
今回は徳に亀治郎、おたかに永作博美。そのほか、梅沢昌代・たかお鷹・花王おさむ・山本龍二・石田圭祐・武岡淳一・酒向 芳・山西 惇・植本 潤・金 成均etcという魅力的なキャストで、前々から楽しみにしていた舞台だ。

物語は───

諸国から食い詰め者が流れ込む江戸は両国橋の橋下で、雨宿りをしていた金物拾いの徳(亀治郎)は、羽前からやってきた新顔の人形遣いの乞食(たかお鷹)から「紅屋の旦那さまでは」と声をかけられる。最初のうちは、とんだ人違いだとあしらっていた徳だが、紅屋が平畠という紅花が特産の東北の小藩一の大店であり、そこの行方不明になっている主人の喜左衛門と自分が生き写し、しかも彼の帰りを待ち焦がれている女房のおたか(永作博美)が「後光のさすような美人」だと聞いて心が動く。
しかし東北弁はできないし、紅花栽培のイロハもわからない。女房とのSEXのやりかただって皆目検討がつかない。果たして紅屋の主人になりすますことができるのか・・・・?

最初はオドオドしていた徳が、次第に喜左衛門になりきっていく様子が、歌と踊りを交えながら、たのしく、サスペンスフルに描かれる。そして最後のどんでん返し!(同じ井上ひさしの「薮原検校」が検校の地位までのぼりつめながら、最後は国家のスケープゴートとなる舞台を思い出したよ)

なんといっても、松井るみの美術がよかった!

舞台に大きくつきささった釘のような楔のような柱は、まるで磔のようだった。紅屋の家の中、紅花を大胆にあしらった襖(屏風だっけ?)、江戸から東北にのぼる途中の桜や、最上川を見下ろす満開の桜。
そして雨。

それと、出演者が多いので、喜左衛門の半生を紹介する場面や、雨乞いのシーンの群舞、最後のシーンのシルエットが迫力だったのもマル。

むろん、亀治郎の徳もいい。江戸弁から東北弁をマスターしていくところ、自分からは喜左衛門とは名乗らないからと神仏に祈る徳。バレやしないかとドギマギしていたのが、次第に残忍な目の色になっていき・・・。(最前列だったので表情がクッキリハッキリ見えた♪)

永作博美は色気はないけど狂気をはらんだテンネンっぽさがこわーい妻である。本物の喜左衛門かどうか、だれがなんと疑おうと私は確信していると、亭主のイチモツの形状をみんなの前でにこやかーにのたまう。「アレはおーぎくて、あそごの鈴口のとこにはおっきなイボが2つ」。

大笑いして、喜左衛門の運命にドキドキしながら、言葉や権力や中央対地方のモンダイを考えさせる舞台。

中劇場のホワイエには約1000本の満開の紅花が飾られていて、記念撮影を楽しんでいるひとが大勢。紅花の種とソバの種をもらって、本日植えてみた。
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by sustena | 2011-06-25 21:32 | Theatre/Cinema | Comments(2)