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2008年 02月 04日

『植田正治 小さい伝記』

c0155474_1125028.jpg『植田正治 小さい伝記』(阪急コミュニケーションズ 2008年1月)を読む。カメラ毎日に1974年から1985年の12年間にわたり、13回発表された作品と日記を編んだもの。植田正治については、植田正治写真美術館のサイトがわかりやすい。1913年生まれ。山陰の空、地平線、砂丘をバックに被写体をオブジェのように配置した写真で有名だ。2000年に87歳でなくなるまで、故郷で写真家として生きぬいた。

植田は、自分をアマチュアである、とことあるごとに力説する。彼の分類によれば、アマチュアとは「お金を目的としないで、好きで写真を撮っているシリアス・フォトグラファー」である。なので、ときとして余技としてプロ的な仕事をすることはあっても、基本は、 「撮りたいモノしか撮らない、撮れない。写真することがとても楽しい。写真こそ生きてる証し」なのだ。

鳥取砂丘に4人の人物を配した「妻のいる風景A」あるいは、「少女四態」など、あの有名な配置とポーズを計算し尽くした写真だけでなく、風景の切り取り方もすべて、ああ、植田の写真だなぁと思わせる。それは、写真をはじめた当時の1930年代のカビの入った写真からして、そうなのだ。黒と白のバランスの見事なこと。

終章で興味深い文章があった。

絵の世界の人には長寿が多く、老大家が「枯れた」画境でカクシャクとして立派な作品を描いているが、写真の世界では老写真家が悠々と写真を撮っているとか、話題になるような新作を発表したという話を聞かない。なぜか。絵画では技巧は年期とともに価値観としてかなりのウェートを占めるが、写真の場合は、テクニックは化学操作でしかないから、現実の「モノ」に対する反応的感覚が必要なのであって、東洋的な「枯れ」の心境では自己的満足にすぎず、大方をナットクさせることはできない。写真家が「過去」に足踏みすることは消滅につながる。「今」を踏んまえて、明日を指向すること、感覚的新鮮さ、「今」が撮れる「生臭さ」がいくつになっても必要なのだ、と書く。

そのとおり、植田は入院先でも、やはり撮ることをやめない。その大半はハッセルブラッドの6×6のスクエアサイズ。その絶妙なフレーミング!

「小さい伝記」というのは、
私にとってはカメラを介しての
触れ合いの記述というようなものであろうか。
写っている人たちにとっては、今日に生きた証しとして、
片隅の、小さな伝記になるのではなかろうか、
とおもったり、それ自体、私にとっても、
ひとつの過去の記録であろうとしての題名である(略)

マネをして、スクエアモードの写真をと思ったけど、3:2で撮ったものをいくらトリミングしても、緊張感のまるでない写真になってしまい、あきらめる。

by sustena | 2008-02-04 01:09 | 読んだ本のこと | Comments(0)


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