2014年 06月 04日

資生堂ギャラリー「中村誠の資生堂 美人を創る」

c0155474_15114249.jpg中高年世代であれば、前田美波里の水着のポスターや山口小夜子の流し目の広告を覚えていらっしゃる人も多いのではないか。永年、資生堂のアートディレクターを務めた中村誠さんの回顧展が銀座の資生堂ギャラターで開かれていたので昼休みに立ち寄った。

中村さんは1926年生まれ。昨年6月2日に87歳で逝去したが、企業デザイナーとして、高度経済成長以降、日本の企業広告を引っ張ってきた人だ。

岩手県盛岡に生まれ、商業高校時代に近所の薬局で山名文夫さんの描いた資生堂のポスターを見て、その女性の美しさに感激しデザイナーを志す。やはりその店に置いてあった同じく山名さんの手になる「花椿」を見て、その絵を何度も模写していたら、戦時中なのにと父親にこっぴどく怒られたらしいが、商業デザインについてもっと学びたいと、東京美術学校(現・東京藝術大学)に進む。

終戦後の1947年。大学3年生の中村さんは、まだ復興途上で、商品がないから棚がスカスカの化粧品店に貼ってあった資生堂の原節子のポスターを見て、資生堂の宣伝部を訪ねる。そしてそこで部員たちから、自分たちの給料すら遅配という状況で、商品もまだ生産されていないため宣伝活動はままならないが、いずれ生産にこぎ着ける時まで、せめて元気を届けたいとポスターをつくったという話を聞き、無休でも働かせてくれと資生堂に通い始める。押しかけ入社の形でいついたわけで、正式入社は1949年。

その後中村さんは、1950年代半ばから80年代にかけて数多くの広告を手がけていく。写真が趣味でマンレイのファンだったことから、同じくマンレイが好きだった横須賀功光と組み、ソラリゼーションや砂目などの製版処理、大胆なトリミングや、飛ばし気味の表現などを工夫し、戦前のイラストを主体とした広告から、写真を素材とする独自の表現スタイルを確立していった。

この展覧会ではそんな中村さんの数々の工夫や、デザインが先でコピー分量を決めていく制作プロセス、入念な色校正などを、実物のポスターと完成に至るまでの写真や校正紙などをあわせて展示し、彼が果たしてきた役割を跡づける。

ポスターからあの時代がまざまざと蘇ってくる。広告が時代を創っていく、そんな時期がたしかにあった。

会場に柏木博が2004年10月に行ったインタビューが流れていた。

山口小夜子が、中村さんが口も聞いてくれないとずいぶんこぼしていたが、一緒に食事をしたり話したりすると、自分の中のイメージが壊れてしまうからと禁じていたことを晩年になって山口小夜子に伝えたという話、デジタル隆盛だが、いい意味でのデジタルでの手仕事を探してみたい。デジタルに汗や手触りをもっと入れていけるのではないか。こんなに表現するテーマが多い時代はないという言葉が印象的だった。アートディレクターにならなかったら何をやりたかったかというと問いに間髪を入れず「カメラマン」と答えていた。

若い人へのメッセージは、「自分が世界で一番デザインが好きなんだ!」と思うこと。
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by sustena | 2014-06-04 17:09 | Art/Museum | Comments(0)


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