2013年 08月 18日
先日、小川洋子の『ことり』(2012年11月刊 朝日新聞出版)を読む。 いかにも小川洋子さんらしい、ひっそりとした、孤独なたましいが静かに息をしているような、独特の世界。 「小鳥の小父さん」と呼ばれた男性の話で、男がそう呼ばれるようになったのは、近所の幼稚園の小鳥たちを20年近くにわたって世話していたことがあったからだ。 彼は、「チィーチュルチィーチュルチチルチチルチィー、チュルチチルチチルチュルチィー」とメジロの鳴きまねが上手だった。この小父さんに、鳥のことをいろいろ教えてくれたのはお兄さん。お兄さんは鳥たちの喋っている言葉を理解できた。、「小鳥は僕たちが忘れてしまった言葉を喋っているだけだ」 このお兄さんは11歳を過ぎた頃から、自分で編み出した言葉で喋りはじめる。その言葉「ボーボー語」を理解できるのは小父さんだけだった。(ただ、棒付きキャンディーの"ボーボー"だけは、変わらずボーボーと呼ばれていた。) お兄さんと二人だけの生活の日々、青空薬局に毎週ボーボーを買いに行ったこと、ボーボーの包み紙で作った小鳥、お兄さんが亡くなってから幼稚園の小鳥の世話をはじめたこと、図書館で鳥関係の本ばかりを借りることに気付いた臨時雇いの司書との交流、箱に入れたスズムシの音色に耳を傾ける初老の男との思い出・・・。いくつかのエピソードが語られ、小父さんは次第に年老いていく。 巣から落ちたメジロを救出し、せっせと介抱したあと、小父さんがメジロに求愛の歌を教え込むシーンが心にしみた。 ついにメジロが自在に歌を操れるようになったときの描写はこうだ。 鳴き声はどこまでも澄み渡り、手を浸せば皮膚の向こうに血管が浮き上がって見えてきそうなほどに透明でありながら、同時に豊かな厚みを持っていた。鼓膜をゆったりと包む柔らかさがあった。一音一音の粒子が嘴からパッと四方に飛び散り、思いがけず遠くまで届き、コロコロと転がってまだその響きが消えないうちにすぐ次の粒子が追いかけてきた。重なり合う響きはより繊細な表情を見せ、もはや楽譜にも記せない和音となった。 小川さんはどうしてこんな設定を思いつくことができるのかなぁ。 写真は先日、近くの講演で見かけたカワセミ。朝の散歩で、あそこにいますよ、と教えてもらったが、私の視力では全然見えず。いわれたほうにカメラを向けて、帰って見てみたら写っていた。 一時期大挙して我が物顔に公園を歩いていたムクドリを最近は見ない。
by sustena
| 2013-08-18 20:27
| 読んだ本のこと
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