2013年 05月 05日
京都への出張の際に読んだのが、網干善教先生の『高松塚への道』(太田 信隆/構成 草思社 2007年10月刊)。 1972年に奈良県明日香村の高松塚古墳で極彩色の飛鳥美人や四神像などの壁画が発見され大きな話題を呼んだが(ワタシも記念切手を買った)、網干善教先生はその発掘の陣頭指揮を執ったひと。 網干先生は、1927 (昭和2)年、明日香村に生まれる。実家は石舞台古墳近くの寺で、幼い頃から石舞台古墳の発掘現場で遊び、そこで末永雅雄博士に出会う。その後考古学に興味を持ち、中学時代から末永博士が所長を務める橿原考古学研究所へ通いつめ、仏教専門学校(現・仏教大学)、さらには末永博士が教鞭をとる龍谷大学へ進み、博士の講義を17年間聴講したという。 この本は、古代史研究の第一人者となった網干善教先生が、高松塚古墳の壁画を発見するまで、そしてその後のマルコ山古墳やキトラ古墳、インドの祇園精舎遺跡と、彼が指揮したさまざまな発掘のエピソードをたどりながら、考古学研究の魅力を綴ったもの。 NHK記者だった太田信隆さんが先生にインタビューし、構成したものだけに、非常にわかりやすい。 高松塚古墳の壁画は、農作業中に生姜用の穴を掘っていったら切石が見えたという話を聞きつけ、その切石が近くの古墳と同じ凝灰岩だったことから、古墳に違いないと、末永博士とも相談のうえ、夏休み返上で学生を集めて盗掘孔に沿って掘り進めていく。壁画発見へといたるくだりは、聞き書きからもその高揚感が伝わってくる。 「盗掘孔を少し広げて中を覗くと、西側に何か色のついたものがかすかに見えた。そこへちょうど陽光が差し込んで少し明るくなると、青い服に茶色の腰ひもをつけた人物が描かれていた」 描かれた壁画がどんな意味をもっているのか、中国や高句麗の壁画との類似点は。網干先生は、「その物が語りかけてくることに五感を集中せよ」と実証主義を貫く。よく古墳の埋葬者は誰かということが話題になるが、物的証拠がない限り安易な推測は戒めていた。 末永博士は、貴重な高松塚古墳の管理を文化庁にゆだねることを決めるが、その30年後に、管理のずさんさからカビがはえ 壁画が劣化してしまったことが明らかになる。結局、文化庁は石室の解体保存を選ぶが、それを痛烈に批判したのが網干先生だった。 「高松塚の壁画が大切なのは、たんにきれいな絵だというだけではなく、そこに古代の日本人の「こころ」が表現されていると感じられるからです。その「こころ」、表現された思想は東アジアの文化を凝縮したものでもあります。天文図、日月図、四神図、こうしたものが、高松塚の古墳にある、ということが大切なのであって、だからこそ現地保存をしなければならない、と僕らはこれまで主張してきたのです」 先生は、高松塚の解体準備が進むなか、2006年7月29日に死去する。 壁画の惨状のあと、第5章で、先生が龍谷大学の周年事業のひとつとして提唱したインドの祇園精舎発掘の話で終わって、ちょっとホッ。 目次 序章 古墳の舞台、アスカ 第1章 石舞台古墳が遊び場 第2章 高松塚古墳の発見 第3章 第二、第三の壁画古墳を探せ 第4章 変わりはてた壁画 第5章 還暦にインドの祇園精舎を掘る
by sustena
| 2013-05-05 16:28
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