2012年 09月 15日
タイトルに惹かれて國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社2011年10月刊)を読んだ。 人類は豊かさをめざしてきたのに、その豊かさが達成されると不幸になってしまうという逆説から、著者は考えを巡らし始める。 社会が豊かになると余裕が生まれる。その余裕を使って何をしているか、好きなこと、という人がいるかもしれない。でもいったいどれくらい多くの人が自分の好きなことができているのだろうか。高度資本主義社会においては、消費者の欲望は、自分のほんとの欲望ではない。好きなことは産業によって与えられている。 つまり、暇が搾取されているのである。そして私たちは暇のなかで退屈してしまう、 そもそも人はいつから暇を見出すようになったのか。暇と退屈のルーツを追って有史以前に思いをはせる。私達が暇を得るのは定住生活に入ってからだ。人類は遊動生活が維持できなくなったからやむなく定住の道を選んだのである。、それは定住革命とも呼ぶべき変化をもたらした、そして退屈を回避する必要に迫られていく。 その後本書では、退屈について論じた哲学者をたどって行く。「暇と退屈の原理論」では、パスカルの言葉をひく。「人間の不幸などというものは、だれもが部屋にはじっとしていられないがために起こる」 兎狩りに行く人はウサギがほしいのではない。熱中できることがほしいだけなのである。 人間が退屈という病に陥ることは避けがたい。つまらぬ気晴らしによってそれを避ける事はできるが、その結果、不幸を招き寄せてしまう、とシニカルにパスカルはいう。そこから脱却するには神への信仰が必要と説いたのである。 一方ニーチェは、人は苦しみがほしいという欲望を持っていると説く、それがファシズムの心性に近いことを想起しなければならない。単に快楽や楽しみを求めることがいかに困難なことか。 退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。今日を昨日から区別してくれる事件を求めている。でもその解決策として「熱意を持った生活を送れ」、というのは問題である。それは不幸へのあこがれをもたらすからだ。 ラッセルの幸福論や。消費社会を論じ、ハイデッガーの退屈論を批判的に考察していく。特にハイデッガーの退屈論が興味深かったな(納得出来ない部分もあったけれど) 19世紀イギリスに生きたウイリアム・モリスは、もし革命が起こってしまったら、その後どうしよう?と考えた。彼の結論は「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。切ることはバラで飾られなければならない」、なんてすてきな答えだろう。 暇に飽きた人たちは自分を奮い立たせ、突き動かす大義をもつ人をうらやましいとすら思ってしまう。そんな欠落感を覚えることなく、もっとキチンと暇と退屈に向き合っていかねばならない。これが筆者の出発点であり結論なのだった。 序章 「好きなこと」とは何か? 第1章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか? 第2章 暇と退屈の系譜学―人間はいつから退屈しているのか? 第3章 暇と退屈の経済史―なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか? 第4章 暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か? 第5章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か? 第6章 暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か? 第7章 暇と退屈の倫理学―決断することは人間の証しか?
by sustena
| 2012-09-15 12:24
| 読んだ本のこと
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