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2011年 11月 29日

隈 研吾+清野 由美『新・ムラ論TOKYO』

隈 研吾+清野 由美『新・ムラ論TOKYO』_c0155474_18103858.jpg建築家の隈研吾さんとライターの清野由美さんの対談『新・ムラ論TOKYO』(集英社新書 2011年7月刊)を読む。 同じコンビによる2008年の『新・都市論TOKYO』では、21世紀の東京に出現した超高層再開発の現場をめぐったが、今回は日本全国を覆っているグローバリズムという経済至上主義のシステムのプレッシャーを逃れ、新しい「ムラ」の可能性を探ろうとして、東京におけるムラ的な場所として、駅前再開発で揺れる「下北沢」、レトロでゆるくてサブカルな「高円寺」、すれ違うだけで救出される演劇的空間の広がる「秋葉原」を、そして、地方から都市を逆照射する新しいムラとして信州の「小布施」を訪れ、考察を重ねる。

隈は言う。20世紀は村が失われた世紀であったと。持ち家願望と空間の商品化によって、土地も建築も人間から切り離され、フラフラとあてどもなく漂い続ける商品となり、村が徹底的に荒廃してしまったと。

しかし、いま村を破壊するシステムそれ自体が自壊を始めた。
また、東日本を襲った3.11の津波の驚くべき破壊力を目の当たりにして、それでもなお、そこに蓄積された時間と想いは決して流し去ることはできないことを私たちは知った。だからこそ、場所というもののたくましさ、しぶとさに再度目を向け、サイト・スペシフィックな暮らしを立ち上げなくてはならない。

とはいえ、新しいムラはどうして可能か? 二人はいろいろな言葉を重ねるが、ちょっと頭でっかちすぎるよねぇぇ・・・という気がしなくもない。でも、たとえば、このラインナップに秋葉原を入れたことについて、たとえばこんなふうに語るのである。

隈 新自由主義経済のアンチテーゼとしてムラが語られる時って、どうしてもキレイごとばかりになりがちでしょう。

清野 大地の恵みとか、自然との共生とか、サスティナビリティ(持続可能性)とか、ロハスとか。

隈 でも人間の欲望は、貪欲にしても、性欲にしても、そういうキレイで前向きなことにあこがれる一方で、キレイではないこと、後ろ暗いことに、どうしようもなく向かうものでもあります。持続可能性とよく言いますが、その原理の半分は、人間のヘンタイ性の持続可能性のことだといってもいいくらいで、そのもう一つのダークな面を語らずして「ムラ論」なんかは成立しないと思うからです。(以下略)

なーんてぶち上げながらメイドカフェへ出かけて、頼んだ「みっくすじゅーちゅ」が登場し、メイドから"りす声"で魔法をかけてくださいね~とお願いされ、萌え、萌え、フリ、フリ、おいしくなあれ♡とやることに目を白黒させてるんであーる。

つまつるっと読める。

第1回 下北沢(「自由」を謳歌する路地裏に、戦後の巨大道路計画が忍び寄る ほか)
第2回 高円寺(高円寺を「ムラ」たらしめているものとは ほか)
第3回 秋葉原(アキバムラのヘンタイ性こそが日本の未来を拓く ほか)
第4回 小布施(小布施という町の「都市性」、「町並み修景事業」という頭脳パズル ほか)
隈 研吾+清野 由美『新・ムラ論TOKYO』_c0155474_044878.jpg


by sustena | 2011-11-29 00:04 | 読んだ本のこと | Comments(0)


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